ダライラマを疑え
真の”チベットの自由”のためのチベット論
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「チベットは中国の一部」英国の声明は100年ぶり―中国紙
【2008/11/12】 総記
2008年11月11日、中国紙「青年参考」は、
ミリバンド英外相が「チベットは中国の一部」と認めた件で、各国メディアが「英国が初めて認めた」と報じたのは誤りとし、正しくは「100年ぶりに認めた」であると報じた。
ミリバンド外相は10月29日、英外務省の公式サイトで
「英国の過去の政策は時代錯誤だった。英国は、非常にはっきりとした態度でチベットは中国の一部であると認める」とする声明を発表。
各国メディアはこぞって、「英国が初めて中国の領有権を認めた」と報じた。
これに対し「青年参考」は、
「中国が清の時代だった1793年、英国王室の特使が乾隆帝に接見した際、すでにこれを認めている。19世紀後半までその態度は変わらなかった」と主張。これらの報道を「厳密には誤り」とし、「正しくは100年ぶりに認めた」とするべきだと指摘した。
 また、チベット亡命政府がミリバンド外相の声明に対し、「1951年に中国が武力侵入するまで、英国はチベットの独立を認めていた」と反論している件については、
「可哀想な弱小民族の代表のふりをして、同情を買おうとしている。中央政府から何らかの条件を引き出したいのだろう」と皮肉った。

特段驚く話でもないのですが、ミリバンド外相の歴史認識には一定の妥当性がある。
確かに、中国当局(中華人民共和国政府)時代の、「民族浄化」とも解される行為は、問題になるだろう。
しかし、一方で、
チベット人が無抵抗であったようなダライラマの主張は間違いであるし、
ダライラマを筆頭とするラサのチベット仏教勢力(=ゲルク派)は、CIA・フランスと繋がり武装闘争を展開していたことも事実であろう。(CIAは認めている)

ミリバンド外相の「中国当局から何か条件を引き出そうとする」行為を批判する意図であれば、それは問題がある。
チベットは中国の一部であり、チベットが政治的要求を行うべき対象はあくまでも中国当局である。
だから、チベットは騙しでも中国当局から自治権を獲得しようとする権利そのものはあるのである。
しかし、その権利を認めさせるための、動機・事実認識にバランスにかけた主張・バランスに欠けた歴史認識・被害者妄想的言動がダライラマに存在するのである。

もっとも、ミリバント外相の歴史感を全否定できる人がいれば、個人的には注目してみたい。
田母神幕僚長の歴史認識発言よりも妥当性ある歴史認識だと思うが、おそらく
歴史知識の浅い「フリー・チベット」論者によって、弾圧されるだろう。

さて、補足的にコメントしておきたいのだが、「チベット」を論じている人で歴史問題で
近現代史だけを取り上げているブログは概して信用できない。
それは、都合のいい歴史事実だけを抽出しがちであることにある。

ダライラマを疑え」で特集したいと思うが、
チベット人・チベット民族と一般的いわれる人々は中央アジア通史において、トルコ民族のように混乱の元凶と言える。
ブータン・ネパール・モンゴルと隣接した地域は、中国当局によるチベット弾圧より以前から
チベット人による民族浄化に近い状況に晒されてきた。
ゲルク派であるダライラマのチベット概念がそもそもチベット人・民族のためになる可能性ははっきり言えば薄い。
ダライラマも亡命政府も存在しているだけで外交できる立場でもない。むしろ、ゲルク派の売名目的で外遊している可能性もある。)
今、移住したチベット人が起こしている問題の解決になることはないし、ブータンの難民問題では、
チベット仏教教徒が、ブータンの少数民族を民族浄化しているのである・・・・・・・


さて、歴史問題として、補足しておくが1793年の出来事では

清朝の乾隆帝が1793年に発布した『欽定蔵内善後章程二十九条』が持ち出される。
この規定がチベットの独立性を暗示するという主張もあるし、チベット旗の由来でもあることで比較的有名である。
しかし仮に独立国同士の国際法として「欽定蔵内善後章程二十九条」を考えるとなれば
異常とも言うべき状況がある。

「二十九条章程」はおもに清朝のチベットに対する権限を定めているものである。
個別は割愛させてもらうが
チベット独立論ではこの規約を大義に独立国としての正当性を主張するが
「政府と内閣をもっていた」「自主制定法があった」→(中国の駐チベット大臣に拘束性がある)
「貨幣を発行した」→(駐チベット大臣が監査監督していた)
「自らの軍隊があった」(清朝が設立し、駐チベット大臣に指揮された)

このような状態が”独立国”としての要件とは到底言えないだろう。主張に対すr「現実は」という部分まで備えていることをどう説明しようというのだろうか?
日本がアメリカの従属国で「真の独立国」ではないという人がいるが、このような状況をどう評するのだろうか?
 もっとも「国家」を規定するための国際法の要件はまったく満たせるものではない。
 チベットの過去ではなく現代が問題であって、チベットが独立国であるための要件は贔屓目に見ないと成立しない。その贔屓目のバランスも問題がありすぎるのである。
「自国の軍隊に関して他国(中国の清王朝)の命令・指示を受ける」ような国家であったチベット・・・・
そして、それを事実として認めているチベットが独立国なのだろうか?

乾隆時代チベットで「二十九条章程」を発布できたこと事実は、チベットが中国に服属していたことを物語りえるものではないだろうか?

さて、本論であるミリハンド外相発言は大きな意味はない。
各国は黙っているが、チベット自治区の統治権は中国当局のものであることは否定しえない事実認識である。
むしろ、諸外国ともチベットは”独立国家”と言えないのが現実で、
その現実は一重に、
「中国の国力」
に尽きるのだが・・・・・

 冥王星個人はミリハンド外相を支持するわけだが、
イギリスの過去の植民地政策のツケは未だに残っていることを英国全体で考えてほしい。
パレスチナはじめ、イラク、マラッカの海賊・ソマリア・・・・一番植民地が多かったことを差し引いても大英帝国の植民地は・・・・

何度でも言うが、フリーチベット論のほとんどが現代史の一面だけで中国当局を批判している。
(現代の右派的歴史認識と同じで都合のいい部分だけしか論じない)
それらは歴史的中立性のある見解ではなく、歴史的無知が介在している。バランスの問題ではなく相対的な知識欠如でチベットの歴史を騙っているのだから、困ったものである。
 
 ダライラマのプロパガンダとアンチコミュニズムに事実が知られていない。歪められている部分がある。
 より多くの事実認識を重ねた歴史認識が流布することを期待したい。
 チベット民族は騎馬民族と同じく周辺農耕王朝にとっては、不安要素であり、農耕王朝の支配下から逃れることができない・・・・・・
これは、歴史的必然性である。
経済力が軍事力の裏打ちであり、経済力なき軍隊はありえない。そしてチベットは国力としての限度で農耕王朝を簡単に凌駕することはできないのである。(海戦では話は違うが)

こういう言い方は失礼かもしれないが
「チベットは他国にとって何かする価値のある地域ではなかった・・・」
いや・・チベットという領土には価値がないのだろう。だからこそ、孤立した歴史を歩めたのであるが
騎馬民族の領土と同じように生産に向かない地域であるがゆえの、農耕王朝からの分離独立の傾向なのである。(痩せた土地をいくら持っても仕方ないという支配の理論)

欧州におけるバスクも同じような地政環境であるが・・・・



「ダライ・ラマ法王とチベット」①
【2008/10/20】 ダライラマ事務所の欺瞞 ダライ・ラマ法王とチベット
転生者の発見

 現在のダライ・ラマ法王14世は、1935年7月6日、チベット東北部アムド地方のタクツェルという小村で貧しい農家の子として生まれた。この活発で可愛いらしい2歳の幼児ラモ・トゥンドゥプが、先代ダライ・ラマ13世の生まれ変わりと認められたのである。
 1939年、4歳になった生まれ変わりの子供は、チベットの首都ラサへ迎えられる。翌年には、ダライ・ラマ14世として正式に即位し、ポタラ宮の玉座に着く。その際、名前もテンジン・ギャツォと改めた。
 ダライ・ラマ法王は、6歳のときから僧院教育を受け始め、24歳のとき仏教哲学の最終試験を受けた。この試験は、毎年チベット暦の正月に実施される祈願大祭の期間中、ラサのチョカン寺で行われるもので、これに優秀な成績をもって合格。ゲシェー・ララムパという仏教哲学最高位の博士号を取得することになる。
当時のチベット政府は、仏教の非暴力思想に基づき、必要最小限の軍備しか持たず、第2次世界大戦でも厳正中立を守っていたが、アジア文化の1つの極みとして繁栄を続けていたチベットの歴史は、俄かに暗転する。


<現在のダライ・ラマ法王14世は、1935年7月6日、チベット東北部アムド地方のタクツェルという小村で「貧しい農家」の子として生まれた。>
 「ダライラマ自叙伝」の記述では
生家は小農ではあったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。貴族階級でもない。わずかな土地をひとに貸し、自分たちでも大麦、ソバ、とうもろこしなどを栽培しており、ゾモというヤクと牝牛の雑種を5~6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2~3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたという。生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという
とのことだが、土地を貸せる身分であったことは、決してチベットの「貧しい農家」ではない。
 チベットにおいて耕作地は非常に限られていることは言うまでもないし、多くの耕作地はラサのチベット仏教世界の所有権になっているのが実情である。
 少ない耕作地を持っている地主であることだけでも農奴封建社会であるチベットでいえば、支配者層であることは言うまでもない。
 自叙伝の記載の真贋は不明確だが、チベット民族の家族構成からすれば、9人目という数は人口と世帯比率からしても異常である。
”チベット人居住区の一世帯当たりは3.2人程度(ラサは都市部として除外した)”
 自叙伝にもあるがダライの長兄(トゥブテン・ジグメ・ノルブ)が高僧に列せられている。
 輪廻転生という儀式は習俗であり自由だが、ダライラマの生家は、チベットでも「貧しい家」ではなく、普通以上の家である。
 自叙伝でも「貧しい」とも指摘していないし、平凡程度の評価であるが、「貧しい」という主観論の怪しさは消えない。
事務所の「貧しい農家」は政治的プロパガンダと断定できるし、ダライ自身の自叙伝からすれば、事実ではない。

<ダライ・ラマ法王は、6歳のときから僧院教育を受け始め、24歳のとき仏教哲学の最終試験を受けた。この試験は、毎年チベット暦の正月に実施される祈願大祭の期間中、ラサのチョカン寺で行われるもので、これに優秀な成績をもって合格。ゲシェー・ララムパという仏教哲学最高位の博士号を取得することになる。 >
 冷静に考えてほしいのだが、「ゲシュー・ララムパ」という学位はチベット独自のものである。しかも、局所的な権威である。
 チベットのラサ世界の主導権を握っているダライとその取り巻きが支配するラサ世界でどれだけ客観性ある評価ができようか?
 日本の皇族の方々の学力は知る由もないが、形式的であっても海外で獲得した学位であるし、客観的に中立な研究機関の評価もある研究論文もある日本の皇族の方々を見ている立場からすれば、自作自演自画自賛の評価でしかない。そうやって内部的な権威付けによってダライ体制は成立しているという意味では、非常に疑問符が付くものがあります。
<仏教の非暴力思想に基づき、必要最小限の軍備しか持たず、第2次世界大戦でも厳正中立を守っていた>
嘘はやめてほしい。
歴史年表には武力的行動が幾度も記述されている
第二次世界大戦中のチベットは「日本軍・国民党軍・共産党軍」の三すくみの状態で何する必要もなくただ、傍観できる立場だったに過ぎない。
中立であったというよりも、チベットは常に余裕のある勢力でもない限りは、放置されてきた世界なのである。
逆説的に言えば、強大化したチベット王朝の誕生のたびに、ブータン・ネパールなどのチベット高原に接する弱小国家は、常にチベットに脅えつづけていたのである。
事実、ダライラマ5世時代には、チベット自身が朝貢外交している。
歴史的には、そのような弱小王朝の歴史は、中立である期間は長い。チベットだけが中立であるわけではない。
 中立であることは事実であるにしてもそれを誇れるような立場ではないことは、大戦間期のチベットとイギリスの関係などからも見えてくる。
1935年
チベット政府、クンブムにいるパンチェンラマに合流するため300名の中国兵が南京を出発したという知らせを受けて、武力で阻止する旨、中国政府に打電。イギリスの武力支援を要求
1936年
カム駐留のチベット軍、中国共産党軍を追って揚子江を越え、デゲなどを掌握。蒋介石が抗議。チベット側は、カムにおける中国国民党軍の脆弱さを知る

先代ダライの時代などは非暴力など到底言えないし、なによりダライラマ5世はブータン・ネパールと侵略行為を繰り返しているのが17世紀以後のダライ体制である。
特に生臭い闘争の歴史をしているのが、ダライラマ13世で、そのチベット仏教の動向を年表もある。
関連年表
ダライラマの非暴力」などという虚飾はずっと続いてることだが、ダライラマ事務所もダライ政権も、
「良き仏教徒」の演出に懸命であり、それに騙されているのが多いのだろう。
 もっとも、仏教徒が決して平和主義ではないのは、東南アジアの近代化の混迷などを考えれば確信的に否定できるし、国家主義共産主義と一般宗教の化学変化が東南アジアの歴史という歴史家が圧倒的である。
 平和主義と宗教は関係ないものであるし、平和主義というのは程度の差はあれど普遍性のある概念であると言えるが・・・・
<アジア文化の1つの極みとして繁栄を続けていたチベットの歴史は、俄かに暗転する。>
 これに関しては、逆説的にチベット仏教の代表者を自称しているダライ体制に対して、痛烈な批判ができるだろう。
 中国の少数民族は数が多い。その中でナシ族を筆頭として、チベット仏教ではなくボン教の背景が強い民族文化を持っている民族が多い。
 しかし、それらはチベット仏教という側面がありながらも、ラマ世界のチベット仏教と同一視されている。

 これは、チベット仏教=ラサ世界=チベットという誤解を生んでいる。
 チベット仏=ラサ世界でもないし、チベット仏教の指し示す範囲は広い。
ボン教とその派生形の宗教までチベット仏教のように言動するダライ事務所の傲慢さは
”ダライ体制が起こしている民族浄化”と言える。

 チベット民族であってもラマ教ではなくボン教信者もいるし、チベット民族以外でも、ボン教のエッセンスを強くもった自然崇拝が
チベット仏教と混同されているのは、むしろ、多くの市民の無知が原因だが、チベット仏教の代表を自称するダライ体制の責任は大きい。
 以前、「九賽溝」の誤解についても指摘したが、「トンパ文字」に関してもチベット仏教という見解が存在している。
 チベット仏教自身の責任ではないが、トンパ文字の文化的価値をチベット仏教が介在した結果、色褪せている。
 なにより、このトンパ文字で知られるナシ族の文化を破壊したのは、チベット統一王朝である「吐蕃」である。
 チベット仏教の妥当な理解はほとんど今の社会には介在していない。
それは、ダライラマの宣伝活動の結果であろう。
そこには、チベット仏教の誤解とその誤解で利するダライ体制の背後関係があるのである。

ちょっとした感想を
 セレブがセレブである状態を維持するために、お互いの社会的価値を高め続ける必要性がある。
A、B,C、Dという著名人がいるとしよう。
 セレブと言われる人間は、各々、お互いを引き出しにする。
例えば、Aという人の著作出版記念日に、Bという著名人を呼ぶことで、AとBの相対価値が上がる。
その見返りに、Bが必要な時には、Aも協力する。
これは人間の協力関係である一方で、相互に価値を高めるための詐術である面もある。
相対価値のある人間同士が己の価値ではなく、付帯してきた別の価値と結託して、自分の価値を高めるのである。
そこには、自分というブランド価値がある。
こうやて、セレブはセレブとしての価値を高め、連携してゆくのだが、それが歪んだ利益関係になることがある。
 ダライラマはその典型例だろう。彼の外交活動は、彼自身が死地に乗り込むことはない。
常に代理人特使を立てて、自分は常に安全な場所にいる。
「ダライは非暴力主義ではない」という記事でも説明したように彼は、決して非暴力行動を徹底した自分ではない。逆に彼は高い位置から、民衆を扇動していた一方で、彼自身は責任逃れをしつづけている。
その結果論の集大成が「亡命政府」である。
チベットの高度な自治を求め、チベットの最高指導者であるならば、中国当局の承認の元に、自治政府の指導者としての責任を果たす道理があるはずだ。
しかし、彼はその責任からも逃げた。表層的に自分は最高指導者であると自称しながら、彼はチベットに関する政治責任を果たしたのだろうか?

 安倍総理・福田総理の辞職を「逃げた」という人がいる。では、彼らが逃げであるならば、ダライラマは「逃げ」ではないと言えるだろうか?
 責任者としての資質を持っているとは思えない数々の行動をどうやっても肯定できない。
そもそも、チベットに関する情報の真贋もあるが、チベットの理解深度はどの程度であろうか?




非暴力主義ではないダライラマ14世
【2008/10/18】 ダライラマ考察
   ダライラマ   
 ダライ事務所ではダライのノーベル平和賞受賞を掲載している。
ダライ・ラマ 法王によるノーベル平和賞受賞スピーチ
1959年~現在まで、ダライ・ラマ法王は、平和のメッセージ、非暴力主義、宗教間の相互理解、世界的な問題に対する責任感と慈悲心が認められ、30を越える名誉博士の学位や各賞が授与されました。
とあるが、この中身を精査してみたい。

<非暴力主義>
ダライのノーベル平和賞受賞のスピーチでは非暴力主義に関して以下のように述べている
私はこの賞を、非暴力の活動をもって変革をめざすという現代的伝統の基礎を築いた人物 、マハトマ・ガンジーへの賛辞としてお受けします。ガンジーの一生は、私に多くを教え励ましてくれるものでした。

 ガンディ氏とダライでは話が非暴力主義の内容に大きな隔たりがあることを説明したい。
 ダライラマの政治闘争の歴史は、ガンディー氏と比較すれば暴力に満ち溢れている。
1956年の「チベット動乱」において、ダライは「暴力をやめるように」とは指導していない。
ガンディー氏が”暴力を制止した”非暴力であることに比肩すれば、明らかに非暴力性において程度が低いのは判るだろう。
1959年の「チベット蜂起」についても、上記と同じように、ダライは暴力行為を諌めた発言はしていない。
つい最近、フランスメディアの報道で以下のような話が暴露されている
<ダライ・ラマ>仏テレビが異例の批判、CIAとの関係も―中国メディア(レコードチャイナ)要約すれば
「政治不干渉の宗教的指導者」と称する彼の矛盾した言動に注目。今年の訪仏前に「政治的活動は行わない」とマスコミに宣言しながら、訪仏後は上院議員30人を前に「中国のチベット弾圧」を訴え、同国政界の反中感情を煽っていた。
チベットの歴史に関しては、14世紀以降のチベットの世界から取り残された封建的統治について紹介し、ダライ・ラマが逃亡するまで同地で行っていた専制政治についても詳しく説明していた。
ダライ・ラマと米CIAとの深い関係についても番組は暴露しており、1956年から1973年まで毎年130万ドル以上の金銭的援助をCIAから受けていたと報道。米国には彼を支援する富豪が多く、毎年60万ドルを彼に渡す者もいるため、「ダライ・ラマは大富豪だ」と視聴者に訴えていた。

このゴシップ報道の真贋は不明だが、冷戦時代の中国はアメリカの標的であり、CIAが盛んにチベットに武器供給していたことはアメリカ政府も否定しない事実である。
同時に、ダライラマ支持者の富豪について実名が幾人が出ているのである。
ダライラマの人脈はガンディ・キング牧師のような下層民との関係ではなく、各国のセレブ・実力者とのパイプがほとんどであることも大きな違いだろう。(むしろ、ダライは世俗的メディアを駆使する扇動家のような側面が強いというべきだろう)
このような素地がガンディー氏にはゴシップにしても見当たらない。
ダライ事務所のページでは以下のように書いてある
 普遍的立場
チベットへ真の自由をもたらすための運動をすすめてゆくにあたり、あくまで非暴力に徹するという強い信念を法王は堅持している。
「中国側がチベット人に加えてきた様々な攻撃やおびただしい弾圧についてもそのような事実を明らかにすることはどうしても必要であるが、中国人そのものに対する憎悪の念を抱くことは決してない」
というのが、法王の基本的な考え方である。法王は、まさしく「平和の人」である。1989年、法王はノーベル平和賞受賞の栄誉に輝いたのは、祖国チベットに自由をもたらすための運動を通じ、決して暴力に訴えることなく平和的手段を貫いてきたことが、国際的に高く評価された結果に他ならない。いかに理不尽な攻撃に直面したときでも、法王は一貫して非暴力政策を提唱し続けてきた。また、法王の受賞理由の1つには、地球環境問題への取り組みも挙げられており、これはノーベル賞の歴史で初めてのことである。

「中国側がチベット人に加えてきた様々な攻撃やおびただしい弾圧についてもそのような事実を明らかにすることはどうしても必要であるが、中国人そのものに対する憎悪の念を抱くことは決してない」という発言がどこまで信用できるだろうか?
「ダライの行動・発言は過激派を生み出し、世界中に中国共産党政府への憎悪に駆り立てている」と言えるのではないだろうか?
 非暴力的である少しの側面をダライに認めるとして、ガンディ、キング牧師との比較は気の毒であるかもしれないが、やはり常人として政治家としても疑問視される行動が
「ダライのインド亡命である。」
 当時、中国との国境紛争を抱えていたインドは、宗教的背景もあるが、ダライラマを亡命政府として迎えた。その行為は、中国インドの外交関係の悪化に貢献した。
その後、中国インドは政治的に亡命政権の法的正当性を否定するに至ったものであり、インドの亡命政府でもない、私的組織であり、「政府」でもないのが国際法的な妥当な認識である。
 ダライの亡命によって求心力をなくしたチベット暴徒は暴徒化し、中国当局の支配に対して武力闘争を展開するのである。
ダライが「非暴力主義」であるならば、亡命せずにチベット民衆を非暴力に誘導する責務があるはずである。ダライがチベットの最高指導者を自称するならば、なお更のはずであろう。
単なる政治活動家であるガンディ・キング牧師と比較して責任感がないと言わざるを得ない。
ダライは自称にしても、チベットの最高指導者なのであるはずだが・・・・
補足意見
ガンディは投獄され獄中活動を行い法的正当性を確立し、キング牧師も法的正当性は常逸していない。
人権活動家で逃げ回っている活動家に関しては、思想的自由を求める一方で法的正当性に対する尊重がないことは非常に憂慮すべきではないだろうか?

あえて、ガンディ氏の非暴力主義にあって、ダライにないものを提示するならば
・身を投げても非暴力主義を達成するための、自己犠牲精神
・被支配者層に対する宗教的配慮

 ガンディ氏と比肩して自分が劣ることはダライ自身が自覚していることは、受賞スピーチでわかるが
同じく非暴力主義のマーティン・ルーサー・キング牧師(以後「キング牧師」)ほど法的正義を確立するまで至らずにいる。
そもそも、ガンディ・キング牧師のように徹底した「暴力を制止する」活動をしていないダライが二人に比肩するというのは、甚だ史実的認識に疑問符が付くものであろう。
 ガンディ氏は差別問題にも関わった。しかし、今のチベット社会は未だに、農奴と想定できる職業人が存在していることはあまり指摘されない事実である。
残酷という表現は我々の価値観だが、チベット仏教世界は、古代世界と同じく農奴の上に成り立っていた社会であり、チベット支配者がチベット仏教に農奴・農作物を寄進して、政教合同してチベットを支配していたのである。それもダライラマ14世即位まで続いていたのは、紛れもない事実である。
せっかくなのでこの記事よりもよほど優秀なサイトをご紹介しておく
長い文章と多少の歴史知識を前提とするが、全体像を掴む上では、もっとも妥当性のあるサイトである。「チベットの未来」

<宗教間の相互理解>
 彼が宗教観の相互理解を主張できる立場ではない。
 カギュー派内の活仏論争では、彼は中国政府と協力して、カルマパ17世をチベット仏教第三位の活仏としてカギュー派の承認なしに規定している。
 チベット仏教に関しても、ボン教の背後関係の研究がチベット仏教内部でも研究が行われていない。海外でもボン教とチベット仏教の区分を研究している人はいない。しかし、世俗的にも明らかにボン教と言える人民が中国・チベット各地にいることをダライもダライ事務所も指摘しようとしない。

今回は、ダライラマの非暴力性の実像をテーマにしました。
そもそも、ダライラマ体制(17世紀以後)事態が、宗教的権威性に追随した支配者に使役した支配であり、その支配時代について、ダライ事務所も語ることはない。語ればダライ体制の根本部分を崩壊させることになるからである。

中国の「チベットの農奴解放」という美辞麗句は、捏造ではない。もっとも中国当局が指摘するような大規模な農奴封建社会ではなかった部分はあるが、「チベットの農奴解放」の必要性はダライは認めることはできないのである。
ダライ・その前のダライ・チベットの宗教世界が農奴の上で成り立つ社会を維持した事実は、仏教の教義からの逸脱であり堕落である。(今も堕落しているのだが)
 ダライラマの群像は創価学会の池田大作氏と同じ可能性を示唆できる。
池田大作氏もダライと同じように多くの「名誉博士の学位や各賞が授与されている」のだ。池田大作氏の栄誉の数々
そして、近年、フランスでは「ダライラマ」への冷たい仕打ちが始まっているのだが・・・・
まさか、チベット仏教がカルトということはないだろうが、胡散臭いという悪意的解釈の余地は大きいのである。

次回のテーマは未定ですが、希望がありましたら、是非、コメントなど
   


「チベットの国家元首、そして精神的指導者であるダライ・ラマ法王」
【2008/10/18】 ダライラマ事務所の欺瞞 「チベットの国家元首、そして精神的指導者であるダライ・ラマ法王」より
チベットには非常に古い歴史があると伝承されているが、7世紀にソンツェン・ガムポという偉大な王が現れ、アジア有数の大国として広く知られるようになった。
そしてインドの仏教がチベットに伝来すると、これを精神的な支柱として、チベット人たちは独自の民族文化を開花させた。

下って17世紀になると、ダライ・ラマ法王をチベット全土の政教両面に渡る最高指導者とする体制が確立され、チベットは平和な宗教国家として、新たな道を歩み始めることになったのである。
その頃、チベット仏教は、モンゴル、満州、そして北京にまで広まり、アジア大陸の広範な地域で文化交流が盛んになったのである。
ダライ・ラマ法王は、チベットの国家元首でチベット人の精神的指導者でもある。「ダライ・ラマ」とは、モンゴル語の尊称で「智慧の海」という意味である。
歴代のダライ・ラマは、慈悲の具現者たる観自在菩薩の化身とされている。観自在菩薩は、悟りの境地を得ながらも自らのために涅槃を求めず、人々を救済するため輪廻世界に生まれ変わるとチベット仏教では信じられている。あらゆるチベット人は、ダライ・ラマ法王と極めて強い絆で結ばれており、とても言葉で表現することは出来ない。
チベット人にとって、ダライ・ラマとは、祖国の全ての象徴に他ならない。そして強健な人々… これらの要素がダライ・ラマと分かち難く結びついており、敬虔な仏教の信仰とあいまってチベットの人々はダライ・ラマ法王に対し、いつも絶大な尊敬と信頼を寄せている。


<7世紀にソンツェン・ガムポという偉大な王が現れ、アジア有数の大国として広く知られるようになった。>
 ”アジア有数”という抽象的な表現の是非は大いに疑問がある。
ソンツェンガンポ王は伝説上の偉人であり、史実的根拠に関しては些か疑問符が尽きない。
日本の「聖徳太子」も実在が疑われているが、ソンツェンカンポ王に関する問題では、通俗的に「吐蕃」の建国者と言われているが、中国の文献以外には、彼の名前は存在しない。
「吐蕃」王朝は遊牧民族的特長(遊牧民ではない)である特定の部族規模になると大国になるという特徴を北方遊牧民と同じくもっていることもあり、大きな版図を確保し、唐王朝の対等とも言える状況になった。しかし、”アジア有数”というならば当時の唐王朝とは比肩するまでもなく、突厥・エフタルなどの北方遊牧民の版図に比べれば面積的にも大きくない。
 同時に、その王朝は封建社会の緩やかな同盟体であり、内訌内乱の歴史が「吐蕃」自身の歴史とも言える。
 アジア有数という贔屓目の根拠はせいぜい、「初めてのチベット高原統一国家」という部分であり、不毛・不作の土地であるチベットの価値は現代よりも低いことは言うまでもない。
 イメージかすれば、アイヌ民族の一部族が昔の蝦夷地全域を支配していた程度の話である。
 同時に、「吐蕃」という王朝名称そのものは中国が知らせたものであり、チベット民族が知らしめたものではない。言語的発展が未熟な当時のチベットが当時の王朝の勢力をどこまで正確に把握し、喧伝できたのか?と言えば、それこそ文献もないのであり、疑う素地が多いのは言うまでもない。
(補足的意見)
 チンギス・ハンのモンゴル帝国は史上最大の帝国版図を誇ったと言われますが、正確にはチンギス・ハンの時代よりも、オゴダイ・ハンの時代が最大版図であり、統一王朝としてのモンゴルは、フビライ・ハンの時代で終焉を迎えている。
 世俗的にモンゴル帝国の版図というのは、モンゴル族で収めた地域であっても、同一王朝による支配ではない。
 そして、もっとも冷静に受け止めるべきは、その版図の内実である。
 不毛・不作とまでいえないが、厳しいシベリア・中央アジアの自然環境は当時の温暖化した状況でも定住農耕には適していない。
 そして、モンゴル帝国は比較的高緯度の版図であるがために、メルカトル図法の弱点である高緯度地域の面積が広がってしまうことからも、実際のモンゴル帝国の版図の理解を歪めている


<そしてインドの仏教がチベットに伝来すると、これを精神的な支柱として、チベット人たちは独自の民族文化を開花させた。>
 ”インドの仏教がチベットに伝来する”という以前の契機についてダライラマ事務所は”不都合な事実”から明確に逃避している。
ソンツェン・ガンポ王の晩年、唐とネパールから迎えられた王妃がそれぞれ、ラモチェ(小招寺)、トゥルナン(大招寺)の2寺を建立。王室には仏教信仰が残る。
761年 ティソンデツェン王が仏教を国教化する決意、使を唐やネパールに送る
 チベットは仏教が入り込む前は、ボン教という自然崇拝の国家である。そこに為政者側の都合のいい仏教が為政者によってもたらされただけなのである。
 そしてその仏教化にソンツェンカンポが多大な影響をもたらしたのが、ソンツェンカンポの二人の奥方であり、その中には、中国の唐王朝の皇帝の娘がおり、今、チベット仏教の聖地の一つが、この中国皇帝の娘(文成公主)である。
 同時にこれは知られていないが、現代のチベット仏教は、日本の仏教のように土着信仰とのハイブリット化が進んでいる。
 ボン教に関しては資料が少なく学術的研究が進んでいないが、存在していたことを否定する学者はいない。
 そしてこのボン教はチベット仏教の取り込まれるように取り扱われますが、果たしてそれが事実なのでしょうか?
 世界遺産で有名な場所で九寨溝(きゅうさいこう)という場所があります。ここは、チベット仏教の地域と言われますが、ボン教の人が圧倒的多いことは知られていません。
 そもそも、ボン教とチベット仏教の相違点はほとんどありません。相互に影響を受け合い形式的には大差がありませんが、ボン教徒とチベット仏教の巡礼方法が違うことなどで分岐することが可能です。
 そして、九寨溝地域は明らかにボン教が圧倒的多数です。
 これは、単純に言えば、「多数派であるチベット仏教がボン教を飲み込んでしまった」という安易な理解と言えます。
 ヘタな宗教本ではボン教=チベット仏教、よくても、ボン教は”チベット仏教ニンマ派”という認識がほとんどです。
 ボン教と確定するために一番の目安はタルチョと呼ばれる祈祷旗です。
タルーチ
私が知る限りでは、このタルチュはチベット民族の各地に点在しますし、彼らは中国の文化革命以後、中国当局によって取り締まりを受けたという報告はありません。
 チベット仏教そのものがボン教の影響を強く受けていることは学術的見解の否定は行われていません。逆説的に言えば、外来の仏教がボン教と同化し、世俗権力の支援があって発展したのがチベット仏教と言えるでしょう。
チベット民族にとっての精神的支柱として仏教の存在を否定することはできないでしょう。しかし、ボン教というベースなしにチベット仏教が存在できたとは言い切れないでしょう。
 ダライラマ事務所は”不都合な事実”として、
チベットの仏教導入の契機
ボン教とチベット民族の関係
を無視しようとしているようですが、これは多様性ある社会を想定した擬似的政府としては些か野蛮といわざるを得ないでしょう。
 日本人の宗教観にアイヌ的な自然崇拝のエッセンスも実態としてあるにも関わらず、それを無視している日本人にも同じことが言えるかもしれません。 
 文化とはハイブリット化し、自然淘汰で適応性によって残存するものでありましょう。

<ダライ・ラマ法王をチベット全土の政教両面に渡る最高指導者とする体制が確立され、チベットは平和な宗教国家として、新たな道を歩み始めることになったのである。>
ここの記述は、あくまでも自称である。
17世紀にモンゴルのアルタイ・ハンがダライラマという名称を作った事実はあるが、最高指導者と規定した根拠は一つとしてない。
 何より、このダライラマという名称の怪しさの局地は、アルタイ・ハンがダライラマという名称を与えてから、ゲルク派が宗派としての立場強化のために、ゲルク派の始祖をダライラマ1世としたことに問題点がある。
 アルタイ・ハンが1世・2世という取り扱いを認めているわけではないのである。
「チベット仏教の最高指導者としての権威性の根源はダライラマにあるのか?」といえば、そのような規定はどこにもない。
あくまでも”自称”に過ぎないのである。
 現実にダライラマの宗教的権威性は別にしてもダライラマ体制が政治的権力があったという証明はどこにもないし、証明作業さえ行われていない。
ダライラマ事務所の「チベットの歴史」という項目でも、ダライラマ体制の政治について語られていない。
 チベットは8世紀中盤には歴史文献が登場するはずであるし、文化大革命の影響で歴史書が散逸するにしても全部無くなるとは想定できるものではない。
 ダライラマ体制なるチベットの支配体制の歴史などそもそも存在していた証拠もないのである。
 形式的に外交窓口としてのダライラマの権威性は、当時のチベット仏教最大派閥のゲルク派トップとして存在していたかもしれないが、チベット仏教の各派ともダライラマをトップと認めたわけでもないのである。 
 そして、もっとも危惧するべきは、ダライ体制という時代があったとして「平和であった」という事実関係である。
 たびたびお世話になるWIKIなので是非、興味ある方はブックマークをお勧めしますが
チベット史年表 〜さんからダライ治世の血生臭い歴史を紐解きましょう。
ダライラマ4世時代
・1605年
モンゴルからチベットまでダライラマを護衛してきたモンゴル人騎兵、カルマ紅帽派を襲撃
ツァン派首長でカルマ派の支持者だったカルマ・テンスン・ワンポが大軍を率いてモンゴル兵を駆逐カルマ派,シンシャクパにゲルク派施主層を襲わせる
デープン寺兜率宮の強硬派、紅帽派がダライラマの出家剃髪などに対して寄せた祝辞に悪意が寓されているとして、モンゴル人を唆し、紅帽派の牲畜を奪わせる。これに対し当時の名目上の政府であったパクモドゥ氏とツァン軍が、兜率宮と共謀していたキシュ管領の軍を破り、甚大な損害を与える
ダライラマ5世の時代
・1642年
グシ汗、チベット王の位に就く
グシ汗、ダライラマを推戴し、自らはチベット国王の座に登り、ソナム・チュンペーをデスィーに任命。ここにモンゴル人による全チベットの覇王が実現

グシ・ハーン、チベット全土を平定し、チベットの支配権を正式にダライラマに献上
・1644年
モン族僧院群・ブータン間の紛争をグシ汗とソナム・チュンペルが調査。
モンへの援軍としてブータンに700のモンゴル兵とチベット軍を派遣するが敗走。
ダライラマ政権、ブータン攻撃
・1647年
ブータンとの間に再度戦争(チベット・ブータン間では日常茶飯事ではあるが)
・1661年
ネパールとの間に国境紛争。チベット軍が派遣され、ネパール人暴徒を駆逐(ネパールとの最初の衝突)

ゲルク派に抵抗する勢力をモンゴル人に駆逐させたり、ブータン・ネパールなどに侵攻するダライラマ体制が「平和な宗教国家」でしょうか?

<④チベット仏教は、モンゴル、満州、そして北京にまで広まり、アジア大陸の広範な地域で文化交流が盛んになったのである。>
 事実を歪曲している。
当時に明王朝は決して交流政策ではなく、鎖国政策であったし、アジアの大航海時代はまだ先の話である。
そもそも、この時代もチベットの歴史は、モンゴル人とチベット人による支配二重構造であり、混乱した時代である。
 そして、チベット仏教がモンゴル・中国に普及するのは、サキャ派時代であり、ダライラマ体制という論拠は一つとし存在しない。
 パスパとフラビイの関係はモンゴル・中国のチベット仏教の関係構築に貢献としたことは否定しようがないが、それ以後、中国支配者はチベット仏教に改修したこともないし、チベット仏教信者が中国で増えたわけでもない。
モンゴルの有力者がチベット高原侵略後に改宗しているが、彼らはチベット仏教でもゲルク派ではない。
(補足的意見)
「チベット仏教」=「ラマ教」=「ボン教」のような非常に乱暴な見解があるが、この妥当性に関しての嫌疑は非常に多いし、学術的には、分岐がされている。
細かい分岐であるという指摘もあるが、チベット仏教=密教、という考え方に関しても妥当性がないという識者は多数存在する。
文中でも話に上った「九塞溝」などはその典型例で
「安易な理解が誤解を生んだ典型例」で言えるだろう。
そもそも、乱暴な言説において、”チベット仏教をカテゴライズ・定義できるものではない”問題がある。
イスラム教のシーア派・スンナ派などは実態としても思想的にも明確な相違点があるにも関わらず、乱暴に同じように扱われる部分などは「乱暴な言説」の象徴性だろう。
 チベット仏教も「チベット」もそもそも乱暴な言説による乱暴な見解で固まっているものが圧倒的である。それを助長するのが、ダライラマ事務所や中国当局が発するロビー情報である。
本サイトでは可能なだけ中立性の持つことに主眼をおいているが、
ダライラマの虚偽性・欺瞞性は筆舌を挫くほど破廉恥であり、一般社会のチベット理解をミスリーディングしていると看破する必要性があるだろう。 


ダライ・ラマ法王は、チベットの国家元首でチベット人の精神的指導者でもある。「ダライ・ラマ」とは、モンゴル語の尊称で「智慧の海」という意味である。
冷静に考えてみると不思議なことがある。
 モンゴル語の名称を使うという意味不明なアイデンティティである。
 チベット人からすれば、チベット語の名称があるわけであり、
「今上天皇」の地位を「天皇」ではなく「The Emperor」と言って喜ぶマインドがあるだろうか?
ダライラマという権威性の由来は、アルタイハンというモンゴルの有力者が与えた名称であり、モンゴルはチベットの実質的支配者だった時代に形式的に支配権が与えられただけで、
”最高指導者”という自称し、政治実権はモンゴル人に支配されているダライラマ体制の内実は如何なものだろうか?
日本の天皇家は真贋は別にしても万世一系であるが、ダライラマは輪廻転生の理屈にしても、その理屈は頓挫している部分が多々ある。
 そもそも、チベットが「国家」である構成要件を満たしているわけではないことも明白である。
モンテビデオ条約などにもあるが、国家の構成要件は、
A:永久的住民
B:明確な領域
C:政府、外交能力を持つもの
とあり、チベットのダライラマ亡命政府は、全て持ち合わせていないのである。
したがって、「国家」ではないし、国家承認してる国は亡命政府との実態的政治関係は発生していないことから、承認されている形式さえ存在しないと言えるだろう。

<あらゆるチベット人は、ダライ・ラマ法王と極めて強い絆で結ばれており、とても言葉で表現することは出来ない。チベット人にとって、ダライ・ラマとは、祖国の全ての象徴に他ならない。>
大きく出たが「あらゆる」とは普遍性があることだが、見事に否定できる。
私の知り合いのチベットのニャオン生活者はアンチではないが、ダライラマを否定している。
彼は一橋大学で社会学を勉強していた学生で、チベット人であることを隠していた。
チベット人と漢民族の差異は、服装によって誤魔化しが可能でもあるので判別が利かない。
彼を知る機会を得たのが教職課程での何気ないやり取りなのだが、今回は割愛する。
彼の手紙を引用しておく(当時はメールではなく手紙)
ダライラマというチベットの象徴的存在は、チベット民族の全体像の多くを締めることは紛れもない事実である。
しかし、逆説的に言えば、ダライ派というラマ僧以外はラサには存在しえないのも厳然たる事実である。
ニンマ派、サキャ派などのチベット仏教のマイノリティはまるで存在しないようにダライはゲルク派だけを問題にしていることは、偏向性のある主張である。
チベットは決してダライ派で固まった世界ではないし、ラサの権限を否定する部族もまだ多数存在する。
それらの民族が表立って、ダライの支配体制を批判できないのは、ダライと中国との過去の関係と圧倒的多数のダライ派チベット人の暴力に怯えているに過ぎない。
 中国のネット規制は、ダライ支配否定派の言動さえも封じているが、そこにはダライと中国当局の権力的妥協の産物があると考えることもできる。
チベットに対する無知が生むチベット世界への偏見はダライ派にとっては、都合のいい誤解であるが、私のようなチベット人には本当が見えない世界世論でしかない。
個人として責任をもって主張できることだが、ダライ派は確実に非ダライ派の自由を侵害している。
中国当局の人権蹂躙は、非ダライ派までは及ばない。
ダライ派は単なる世俗的破壊活動家集団でしかなく、利害関係の一致で中国とも連携できるだろう。
ダライラマがノーベル平和賞を貰った当時に私は、ノーベル賞とノーベルの発明の皮肉の話を引用したことがあるが、ダライラマは決して平和主義者ではなく、むしろ、「破戒僧」であるという認識が私には支配的である。

この文章を頭から肯定することはできないが、この文面の内容を暗示する事実は散在するのである。
現在のラサ世界には、ゲルク派僧侶が大半を締めている。チベット人民のゲルク派の数は不明だが
あくまでも、ゲルク派は一宗派に過ぎないものであり、「ダライラマ=チベット仏教」ではない。
そもそも「あらゆる」ということは、「チベットには宗教的自由がなく全て強制されている」という可能性が高い。(独裁体制における選挙投票率を同じ理屈だろうか?)
チベットのダライラマ体制が宗教的自由を認めていない可能性があり、恐怖支配でもしているのだろうか?
悪意的な見方とリアリティからすれば、「あらゆる」は異常であり、妄言であることは冷静さがあれば推測できるものである

ロビー活動とも言うべき、贔屓の強い文面に疑問符は尽きない。
何より、このダライラマ事務所の文章の内容が欺瞞に満ちているのである。

蛇足だがチベット系でもダライ派のメディアとして有名なのが
大紀天時報なのだが、別にチベットの「東スポ」ではない。一般の紙面である。
香ばしいネタがあるので是非、チベットのダライ派の思考回路を垣間見てほしい

さて、次回は、カテゴリーを変えて「ダライラマの非暴力主義の幻想」というテーマで
ダライラマ自身の欺瞞を明確化したい。



「ダライラマ事務所の欺瞞」のイントロダクション
【2008/10/18】 総記
   総記   
 カテゴリー「ダライラマ事務所の欺瞞」は不定期ながら、ダライラマ法王日本代表事務所(略して「ダライラマ事務所」)の内容について可能な限り、検証するカテゴリーです。
 引用などについては随時、引用先URLをご案内しますが、ソースの信用性に関しては、ソースのソースまで確認したものであり、少なくともソース的信用性については、
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